絵画の種類...水墨画形式...掛け軸・掛軸軸先含めない全体的な大きさは207cm×61cM程度です源琦(げんき、延享4年(1747年6月12日)- 寛政9年8月8日(1797年9月27日))は、江戸時代中期の絵師。姓は駒井、本姓は源、名は琦で、駒井源琦と表記されることも多い。字は子韞[1](しおん)、通称は幸之助。円山応挙の高弟で、長沢芦雪と共に二哲と評された。芦雪とは対照的に師の画風を最も忠実に継承し、特に清楚な唐美人図で知られる。京都で根付彫り職人の子として生まれる(ただし、後に帯刀を望んだ時には儒者の門人と届け出ている)。早くから応挙に学んだと推測されるが、いつ頃応挙に師事したかははっきりしない。『萬誌』の明和6年(1769年)以降、応挙と共に「駒井」なる者の名が発見できる。現在確認されている最も初期の作品は明和7年(1770年)作の「後三年合戦絵巻」模本が知られているが、20代ではこれと「十二類絵巻」の模写作品しか残っていない。安永4年(1775年)源琦29歳時に出版された『平安人物誌』では、20名載る絵師のうちの一人に選ばれている。同誌に載る応挙弟子は、源きと島田元直と2人だけで、他には応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、呉春、曾我蕭白らの名が並び、源きが彼らとともに一流の絵師として評価されていたことが解る。天明2年(1782年)の『平安人物誌』でも源きの名が記されているが、住所が「六角室町東入町」から「四条堺町東入」に移っている。応挙も当時四条堺町に住んでおり、何らかの理由によって師の近くに引っ越したと考えられるが、翌々年の『京羽二重大全』の住所は「東洞院錦小路上ル」で再び転居している。また、源きは門人なら参加してしかるべき、天明7年(1787年)の大乗寺障壁画制作に加わっていない。他に、『木村蒹葭堂日記』に数回登場しており、両者には交流があった。寛政2年(1790年)応挙一門と共に御所造営に参加する。応挙晩年は体力が衰えた応挙の代わりに絵具を溶いたという。源琦の晩年も病気がちで、趣味だった菊の手入れもままならないと嘆く手紙が残っている。円山派の跡取りで応挙の子・円山応瑞の後見人役を望まれ、源きも主家を第一に考えていたが、師を追うように2年後亡くなった。菩提寺は、三条通大宮西入妙泉寺
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